船のよもやま話

船舶に関わる話題

母船式漁業

母船式漁業は、日本にとって重要な産業でした。

 

戦前から、母船式漁業は行われておりました。有名な小説「蟹工船」は一種の母船式漁業と言えると思います。

 

南洋捕鯨も戦前から行われていました。昭和9年(1934年)ごろの話です。この頃から大型な母船と捕鯨船との組み合わせで、南氷洋において、鯨を捕り始めました。

日本沿岸においても捕鯨は行われていましたが、捕鯨船が鯨を取り、その加工を母船が行う様な一連の作業になっていませんでした。

この時代の日本における捕鯨は、油を取る事が目的で、鯨肉を目的としていませんでした。

その為、捕鯨母船は、鯨から取った油を蓄えておく油槽船・タンカーの役割を持っていました。そしてこの取った鯨油を輸出する事で外貨を取得していたのです。

 

ただ、その後すぐに第二次世界大戦となります。世界情勢も著しく変化する中で、南洋捕鯨も行えなくなりました。南洋捕鯨は、昭和16年1941年に一時中断となります。

戦前に使用されていた捕鯨母船は、油槽船として活用できる為、海軍に徴用されます。

当時の会社名「林兼商店」(マルハ株式会社)が持つ「日新丸」「第二日新丸」や「日本捕鯨」(日本水産)が所有する「図南丸」「第二図南丸」「第三図南丸」、「極洋捕鯨株式会社」(株式会社極洋)「極洋丸」は、戦争が始まる直前に海軍一般徴用船(給油船)となりました。

これらの捕鯨母船は、戦時中全て沈没してしまいます。ほとんどが潜水艦の攻撃によるものでした。

その中でも、潜水艦からの魚雷攻撃で15本の内12本の魚雷が命中したにも関わらず、魚雷の信管不良によって、沈ますにトラック島まで逃げ切った船がいました。でも、2本の魚雷が爆発していたにも関わらず、浮いたままというのも奇跡ですし、4本の魚雷が刺さったまま逃げ切ったと言うのも劇的な内容です。タンク内に水より軽い油を積んでいたので沈まなかったと言う節もあります。ただそれでも引火すると大爆発を起こしてい可能性もあるので奇跡としか言い様がありません。

船がトラック島に来た時、魚雷が刺さったままなので、その船は、その魚雷が刺さった状態からあたかもかんざしを刺している容姿に擬え「花魁船」とも呼ばれました。

トラック島に逃げ切っても既に自力で航行できない状態で、トラック島の油タンクの役割を持っていましたが、昭和19年2月19日にとうとう、その船は沈没しました。