船のよもやま話

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大型の漁船

今ではもう廃れてしまいましたが、昔、母船式漁業がありました。

 

大きな母船一隻を中心として、中型の漁船を多く引く連れ漁場において数ヶ月間、操業する方法です。捕鯨の場合には、独航船では無く、キャッチャーボートになります。

北洋の場合、鮭鱒(通常サケマスと読みますが、船団員は右辺だけを音読みして、ケイソンと呼びます)が主流ですし、南氷洋では捕鯨が母船式漁業の花形でした。

 

母船には数百人が乗っており、そのほとんどが製品制作に携わり、すり身、竹輪や缶詰、冷凍食品などを作る一種の工場でした。また、母船には、船団長・漁労長が乗組んでおり、指揮命令を母船から各船に伝えられるため、操業場所の指示を下す指揮する船でもありました。

さらには研究者も乗船しており、魚の研究なども行われていました。

 

独航船は、実際に網を繰り出し、魚・鮭鱒を取ってくる船です。法律上、母船に付属する漁船の位置付けになっていました。独航船は、一つの船団に30隻ついていました。

船団内でも競いあって魚を取り、船団内での漁獲高競争していた様です。

 

母船では、右絃に着船している独航船が取ってきたケイソンを母船に水揚げし、反対舷の左舷に船着けしている仲積船に加工品を積み込む作業を延々と繰り返します。

 

母船に水揚げされた魚は、当時最新鋭の機械によって、頭が落とされ、腹が裂かれて内臓も自動的に取り出され、身だけの状態に捌かれていきます。その後、すり身や缶詰、そのまま半身状態で冷凍されるなど様々な製品が母船で作られていきます。母船で荒巻や筋子なども作られます。

 

それらを仲積船に搭載、日本へ運ばれて行きます。仲積船は、日本と母船との間を行き来しますやります。日本を発って、母船に行くときには郵便や食料、燃料を搭載し母船に着くととも燃料と食料、水を補給するとともに、郵便物も運びます。

そのあと、母船から製品を積み込み日本へ戻って行きます。

 

母船式漁業は、昭和中頃、200海里問題が起きるまで、花形の漁業でした。規模も大きく経済的価値も高く、食糧供給の中心になっていました。

 

今ではこの母船式漁業は行われておりません。