船のよもやま話

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母船式漁業 図南丸

日本水産は、大した企業です。戦後活躍した企業の一つです。多くの日本人を飢餓から救った企業なのです。大洋漁業も然りです。

 

戦後、日本は食糧危機に陥りました。特に動物性タンパク質を摂取できない状況でした。船という船は全て沈没し、大量に魚を捕る船がありません。陸上にいる牛や豚、鶏も制限があります。

その時、目をつけたのは捕鯨でした。ただ、母船がいません。戦時標準型のオイルタンカーを無理やり捕鯨母船に仕立てました。でも、敗戦国日本に対する各国の対応は厳しいもので、各国から苦情が出ました。

しかし日本の実情を知っているアメリカから「日本の飢餓を救ってから苦情を出せ。」との発言で、各国も認めることに至り、GHQの許しを得て、昭和21年に日本捕鯨が再開することができました。

日本水産の所有する船は、「橋立丸」と言い、大洋漁業は「第一日新丸」でした。

両船とも元がオイルタンカーだった事もあり、捕鯨母船としては小さく、低性能でした。当時の日本の情勢を考えると残念な状況でした。

当時、日本では大型の母船を作るだけの鉄なども不足しており、建造するにもGHQの許可が必要でした。

そこで、日本水産は、所有しトラック島の浅場で沈んでいる「第三図南丸」に目を付けます。これを浮揚させ、機関を取り替え、修理を施し最新鋭の捕鯨母船に仕立てようと考えました。日本水産は、大規模な調査団を送り込み、結果浮揚可能と判断がなされ、GHQに許可を貰いました。

昭和26年に4ヶ月半の歳月をかけて浮揚させ、その後曳航して日本に戻って来たのです。浮揚作業は、播磨造船呉船渠サムベージ部により「君島丸」を用いて行われました。最初に「第三図南丸」は、船底から浮き上がり、バラストタンクを取り付けられ、3回かに分けて引き起こす作業を行なわれました。曳航時、もちろん、7年間も沈んでいたわけですし、上部構造物となる船橋も煙突も破壊されて何も無く、自航・単独で航行することができない状態でした。その為、日本水産の仲積船・これも戦時標準船「玉栄丸」を用いて、2000海里に及ぶ曳航をまっとうさせたのです。途中時化・嵐にも会いつつ、何とか日本にまで戻って来させてきました。

「第三図南丸」は総トン数19,210トン全長263m幅22.5m喫水10.97mもある巨大な船です。これを10,419トン長さ148m幅20mの「玉栄丸」が曳航してきたのです。

魚雷を12本命中した船が、それも一度沈んでしまった船が再び日本まで戻ってきたのです。

新造するよりはこの方法で修理する事で、当時のお金で5億円安く調達できたと言われています。

 

「図南」とは巨大な鵬が南に向かって飛び立とうとする意味があるそうです。その事から大事業を計画することの意味もある様です。南太平洋に沈没した船を復活させるこの事業は、鉄不足でまともな捕鯨母船を建造できない当時の日本としては大きな大事業と言えるでしょう。

大戦に負けたばかりの敗戦国日本は、多くの日本人を飢餓から救うため、その救世主となる沈んでいた捕鯨母船になみなみならぬ努力と叡智が注ぎ込んだのです。