船のよもやま話

船舶に関わる話題

母船式漁業 モッコ

モッコと呼ばれるロープを編み込んだ吊り具によってクレーンを使用し、缶詰や魚の製品となるすり身や荒巻鮭、鯨肉などを母船から仲積船に積み込んでいました。

母船は、独航船が取ってきたサケマス、鱈を積み込み、それを母船内にある機器を用いてすり身を作り、さらには竹輪なども作ったりします。荒巻鮭や筋子なども作ります。一種の水産加工工場と言えます。その製品を作る事業部だけでも500人に及ぶ作業者が働いていました。

出来上がった缶詰や魚の製品は、木箱や段ボール箱に入っており、それをモッコの中に10個20個と積み上げ、その製品ごとモッコで吊りあげクレーンを振って仲積船の船倉に入れていきます。仲積船は日本と母船の間を行き来する船です。日本を立つときは母船や独航船で使う燃料や食糧、水に郵便物を積み込んで漁場に来ます。帰りは製品を積んで日本に戻っていく船です。クレーンやモッコに積み込む作業は甲板部と呼ばれる船を動かす部署が対応していました。舵を握って船の進路を保ったりする部署です。

母船は、大きな工場ですので製品が大量に出来上がります。仲積船に搭載する量もとてつもない量になります。

また、積み込むのは製品化済んでいる売り物です。缶詰が変形したり、荒巻鮭の木箱が壊れると売り物になりません。慎重な作業が求められる作業でした。ただ・・・

古参の甲板部員はいつも慎重にクレーン操作を行います。でもあるときは、船が揺れるタイミングでクレーンを大きく振ってみたり、クレーンのフックにモッコをかける時わざと浅く掛けて落ちやすくしたりします。そうなると壁に製品が詰まったモッコが当たり製品で木箱が壊れたり、モッコが高所で外れてしまい甲板上に缶詰の段ボール箱が裂かれ缶詰ががばら撒かれたりします。そこでこう言うのです。「あぁー、あの揺れのせいで製品がぁー。」その上で「もう、売りもんにならん。回収ぅー。」と言って、甲板部員一同で売り物で無くなった缶詰などを回収します。回収された製品は売り物にならなかったのです。捨てる訳にもいかず、夜に甲板部員のお腹の中にお酒と一緒に仕舞われるのです。

製品になる前の鮭や鱒ももちろん狙われます。よく言われる百匹に一匹いるかいないか時知らずの鮭とか有名な鱒などターゲットになります。独航船からモッコであげられた鮭鱒は、工場のある甲板・階に下ろされる前に暴露になっている上甲板に降ろされます。その時が掠め取るタイミングです。一人でも出来ません。掠め取った鮭鱒をリレーで運び込む必要があります。

モッコが広がり何百匹の鮭鱒がドサァーと降ろされます。その近くには階層下にある工場に向けて穴が開いておりそこに鮭鱒をドンドンと入れ込んで行き下の工場にある大きな機械によってで鮭鱒を製品化していきます。その穴に鮭鱒が入る前にヒョイと違う方向へ美味しい鮭鱒を誰にも見つからぬ様投げます。そこには盗っ人Aが構えており、飛んできた鮭をそのまま盗っ人Bにパスします。その後もC,Dに渡されて何匹かの鮭鱒は製品にならず船内に持ち運ばれていきます。その魚はどうなるのか?折角掠め取った魚でも明日明後日に下船できる環境ではありません。下船は数ヶ月後です。冷蔵庫冷凍庫は製品のために使用されます。船の中では個人の冷蔵庫などは持っていません。置く場所もありません。どこにも保存する場所が無いように思えます。この後この鮭鱒達はどうなるかと言うと、一斗缶の中に塩と共に詰められ、居室内の壁の中に消えていきます。壁の中でも一旦居室の壁の板をきれいに綺麗に取り外し揺れても崩れぬ様慎重に、かつ綺麗に一斗缶を積み上げられます。でも、一斗缶の中身は塩と魚です。じわりじわりと塩が漏れてきます。漏れた塩は鉄を溶かします。数ヶ月間ずっと塩蔵され、日本に戻った後、実家に帰る際のお土産になったのです。当時は宅急便もない時代だったのでトラックを呼びつけて最寄りの駅まで運ばせて実家まで運んだそうです。そのため帰港した母船の岸壁には多くのトラックがっ待ち構えていました。居室内の壁もこの時一斉に取り外され一斗缶もトラックへ運び込まれます。一斗缶が無くなった壁は、、、一面、真っ赤な錆に包まれていました。

それでも会社は見て見ぬふりをしていたとか。

数ヶ月に及ぶ長期航海での細やかな出来事に過ぎなかったのかも知れません。

 

母船式漁業 通信

母船式漁業は廃れてしまった漁業です。それでも素晴らしい漁業であり、日本を支えた産業の一つでした。

200海里問題でその漁業が終息してしまいます。

母船式漁業が盛んだった当時は、トンツーと言われる電信によって通信が行われていました。単音となるトと長音のツーの組み合わせによる通信です。ト・ツーでAの意味になります。各捕鯨船(鯨を捕る船)や独航船(魚を捕る船)に対し母船から指示を出す際もトンツーによって行われていました。

 

ただ、普通に送信してしまうと、他の水産業者・他の船団に漁場がばれてしまいます。魚が集まっている漁場であれば他の船団にバレてしまうと集まってしまい、自分の船団の取り分が減ってしまいます。では何をするのかと言いますと、暗号を用いる事になります。

また、相手の船団でもその暗号解読に躍起します。ブロックのところに緯度経度の数字を書き込み、そのブロックを暗号表に基づき移動させる方式の暗号でした。その暗号表を如何に解読することができるか?それが母船に乗り込む通信長や通信士の業務でした。ですので母船に乗る通信士にとって、普通に通信する事は何でもない事で、暗号解読など普通では行わない事もやっていました。

すごい方になると、その暗号文を頭の中でそのままブロック化しそしてそのブロックパズルを組み立て直して、それを解読し、解読した緯度経度を紙に書き出せる技を持つ人もいたそうです。トンツーだけでも頭が混乱してしまうのにその様な長けたことができる人がいたそうです。その緯度経度を船団長に渡すことまでが通信士の仕事でした。

 

捕鯨母船では年末年始を南氷洋で過ごす事になります。その時、正月のお祝い電報を打つことになり、限られた時間で数百名の祝電を受けたり送ったりと大変な忙しさになったと言われています。また、毎日送られてくるニュースもトンツーで来ました。頭の中で聞き取りつつ、文章になってから、もちろんカタカナでは無く、漢字も混ぜて紙に移し替える作業をしていました。トンツー初心者は一文字一文字書き写すことがやっとで余程慣れていないと出来ない芸当です。

 

日本には銚子に無線局があり、そこが船舶からの無線中継を行なっておりました。ここの通信担当の方は、一般商船の通信より母船の通信の方が聞き取りやすかったと言われていました。確かに数百名の方が乗り組み、絶えず独航船に指示を出したり本社へ連絡を入れたりしていた船の通信士ですので納得できる内容と思えます。

この後、平成の時代に入り、インマルサット(海上衛星通信)などの衛星通信の発達し、普通に会話ができる無線や電子メールが行える様になり、トンツー電信による通信も廃れていきました。そして、

このトンツーによる船舶間の通信方法も今では廃止され、アマチュア無線の方々やごく僅かな一部の漁船で用いられる程度になりました。

 

新生「図南丸」 母船式漁業

新生「図南丸」は、当時の播磨造船によって修繕されました。

 

日本まで運ばれた当時、「図南丸」には、泥が溜まり、貝などの海洋生物も大量に付着していました。それを丁寧に取り除き、魚雷や爆発の被害を受けたところを治し、新しいエンジンを搭載し、「第三図南丸」から新生「図南丸」へと生まれ変わりました。

正に不死鳥と言えます。

「図南丸」は「橋立丸」の後を引き継ぎ南氷洋において捕鯨活動を行います。

昭和26年10月、捕鯨船キャッチャーボートを冷凍工船などなど引き連れていざ南氷洋に行ったのです。

戦前の捕鯨は鯨油採取が目的でほとんどの鯨肉が海洋へ投棄されていましたが、この時・戦後は鯨肉が重要な時代でした。

冷凍技術も発達していない事もあり、塩蔵された鯨肉もあった様です。

鯨油は母船で精製し、冷凍するにはそれ専用の冷凍工船を引き連れて行ったのです。

 

トラック島で沈んだ船を浮揚させ、それを3700kmに及ぶ大曳航し、泥と貝殻だらけの壊れた船体を日本で一番の捕鯨母船として復活させた人達の努力は並々ならぬものがあった事でしょう。

 

それにより南氷洋にて多くの鯨を捕りに行き、多くの国民の飢餓を救ったわけですから、「図南丸」の名前に相応しい船だったと思います。

 

「図南丸」は、昭和26年から、昭和40年までの間、15回に渡り南氷洋に行き、昭和42年から45年まで北洋捕鯨に4回行きました。

そして、昭和46年に解体されました。

 

この船の話を初めて聞いた時、こ奇跡の船の運命的な凄さを感じられずにいませんでした。

 

昭和13年から昭和46年までの33年の間に、7年間も沈没し、その前に15本の魚雷攻撃を受け、それでもしずまずに、トラック島まで辿り着き、その後浅場で空襲によって沈没した船です。

それが不死鳥として甦り、日本唯一の母船捕鯨船団の勇として南氷洋に戻ってきたわけです。

 

 

 

母船式漁業 図南丸

日本水産は、大した企業です。戦後活躍した企業の一つです。多くの日本人を飢餓から救った企業なのです。大洋漁業も然りです。

 

戦後、日本は食糧危機に陥りました。特に動物性タンパク質を摂取できない状況でした。船という船は全て沈没し、大量に魚を捕る船がありません。陸上にいる牛や豚、鶏も制限があります。

その時、目をつけたのは捕鯨でした。ただ、母船がいません。戦時標準型のオイルタンカーを無理やり捕鯨母船に仕立てました。でも、敗戦国日本に対する各国の対応は厳しいもので、各国から苦情が出ました。

しかし日本の実情を知っているアメリカから「日本の飢餓を救ってから苦情を出せ。」との発言で、各国も認めることに至り、GHQの許しを得て、昭和21年に日本捕鯨が再開することができました。

日本水産の所有する船は、「橋立丸」と言い、大洋漁業は「第一日新丸」でした。

両船とも元がオイルタンカーだった事もあり、捕鯨母船としては小さく、低性能でした。当時の日本の情勢を考えると残念な状況でした。

当時、日本では大型の母船を作るだけの鉄なども不足しており、建造するにもGHQの許可が必要でした。

そこで、日本水産は、所有しトラック島の浅場で沈んでいる「第三図南丸」に目を付けます。これを浮揚させ、機関を取り替え、修理を施し最新鋭の捕鯨母船に仕立てようと考えました。日本水産は、大規模な調査団を送り込み、結果浮揚可能と判断がなされ、GHQに許可を貰いました。

昭和26年に4ヶ月半の歳月をかけて浮揚させ、その後曳航して日本に戻って来たのです。浮揚作業は、播磨造船呉船渠サムベージ部により「君島丸」を用いて行われました。最初に「第三図南丸」は、船底から浮き上がり、バラストタンクを取り付けられ、3回かに分けて引き起こす作業を行なわれました。曳航時、もちろん、7年間も沈んでいたわけですし、上部構造物となる船橋も煙突も破壊されて何も無く、自航・単独で航行することができない状態でした。その為、日本水産の仲積船・これも戦時標準船「玉栄丸」を用いて、2000海里に及ぶ曳航をまっとうさせたのです。途中時化・嵐にも会いつつ、何とか日本にまで戻って来させてきました。

「第三図南丸」は総トン数19,210トン全長263m幅22.5m喫水10.97mもある巨大な船です。これを10,419トン長さ148m幅20mの「玉栄丸」が曳航してきたのです。

魚雷を12本命中した船が、それも一度沈んでしまった船が再び日本まで戻ってきたのです。

新造するよりはこの方法で修理する事で、当時のお金で5億円安く調達できたと言われています。

 

「図南」とは巨大な鵬が南に向かって飛び立とうとする意味があるそうです。その事から大事業を計画することの意味もある様です。南太平洋に沈没した船を復活させるこの事業は、鉄不足でまともな捕鯨母船を建造できない当時の日本としては大きな大事業と言えるでしょう。

大戦に負けたばかりの敗戦国日本は、多くの日本人を飢餓から救うため、その救世主となる沈んでいた捕鯨母船になみなみならぬ努力と叡智が注ぎ込んだのです。

 

母船式漁業

母船式漁業は、日本にとって重要な産業でした。

 

戦前から、母船式漁業は行われておりました。有名な小説「蟹工船」は一種の母船式漁業と言えると思います。

 

南洋捕鯨も戦前から行われていました。昭和9年(1934年)ごろの話です。この頃から大型な母船と捕鯨船との組み合わせで、南氷洋において、鯨を捕り始めました。

日本沿岸においても捕鯨は行われていましたが、捕鯨船が鯨を取り、その加工を母船が行う様な一連の作業になっていませんでした。

この時代の日本における捕鯨は、油を取る事が目的で、鯨肉を目的としていませんでした。

その為、捕鯨母船は、鯨から取った油を蓄えておく油槽船・タンカーの役割を持っていました。そしてこの取った鯨油を輸出する事で外貨を取得していたのです。

 

ただ、その後すぐに第二次世界大戦となります。世界情勢も著しく変化する中で、南洋捕鯨も行えなくなりました。南洋捕鯨は、昭和16年1941年に一時中断となります。

戦前に使用されていた捕鯨母船は、油槽船として活用できる為、海軍に徴用されます。

当時の会社名「林兼商店」(マルハ株式会社)が持つ「日新丸」「第二日新丸」や「日本捕鯨」(日本水産)が所有する「図南丸」「第二図南丸」「第三図南丸」、「極洋捕鯨株式会社」(株式会社極洋)「極洋丸」は、戦争が始まる直前に海軍一般徴用船(給油船)となりました。

これらの捕鯨母船は、戦時中全て沈没してしまいます。ほとんどが潜水艦の攻撃によるものでした。

その中でも、潜水艦からの魚雷攻撃で15本の内12本の魚雷が命中したにも関わらず、魚雷の信管不良によって、沈ますにトラック島まで逃げ切った船がいました。でも、2本の魚雷が爆発していたにも関わらず、浮いたままというのも奇跡ですし、4本の魚雷が刺さったまま逃げ切ったと言うのも劇的な内容です。タンク内に水より軽い油を積んでいたので沈まなかったと言う節もあります。ただそれでも引火すると大爆発を起こしてい可能性もあるので奇跡としか言い様がありません。

船がトラック島に来た時、魚雷が刺さったままなので、その船は、その魚雷が刺さった状態からあたかもかんざしを刺している容姿に擬え「花魁船」とも呼ばれました。

トラック島に逃げ切っても既に自力で航行できない状態で、トラック島の油タンクの役割を持っていましたが、昭和19年2月19日にとうとう、その船は沈没しました。

 

 

 

 

大型の漁船

今ではもう廃れてしまいましたが、昔、母船式漁業がありました。

 

大きな母船一隻を中心として、中型の漁船を多く引く連れ漁場において数ヶ月間、操業する方法です。捕鯨の場合には、独航船では無く、キャッチャーボートになります。

北洋の場合、鮭鱒(通常サケマスと読みますが、船団員は右辺だけを音読みして、ケイソンと呼びます)が主流ですし、南氷洋では捕鯨が母船式漁業の花形でした。

 

母船には数百人が乗っており、そのほとんどが製品制作に携わり、すり身、竹輪や缶詰、冷凍食品などを作る一種の工場でした。また、母船には、船団長・漁労長が乗組んでおり、指揮命令を母船から各船に伝えられるため、操業場所の指示を下す指揮する船でもありました。

さらには研究者も乗船しており、魚の研究なども行われていました。

 

独航船は、実際に網を繰り出し、魚・鮭鱒を取ってくる船です。法律上、母船に付属する漁船の位置付けになっていました。独航船は、一つの船団に30隻ついていました。

船団内でも競いあって魚を取り、船団内での漁獲高競争していた様です。

 

母船では、右絃に着船している独航船が取ってきたケイソンを母船に水揚げし、反対舷の左舷に船着けしている仲積船に加工品を積み込む作業を延々と繰り返します。

 

母船に水揚げされた魚は、当時最新鋭の機械によって、頭が落とされ、腹が裂かれて内臓も自動的に取り出され、身だけの状態に捌かれていきます。その後、すり身や缶詰、そのまま半身状態で冷凍されるなど様々な製品が母船で作られていきます。母船で荒巻や筋子なども作られます。

 

それらを仲積船に搭載、日本へ運ばれて行きます。仲積船は、日本と母船との間を行き来しますやります。日本を発って、母船に行くときには郵便や食料、燃料を搭載し母船に着くととも燃料と食料、水を補給するとともに、郵便物も運びます。

そのあと、母船から製品を積み込み日本へ戻って行きます。

 

母船式漁業は、昭和中頃、200海里問題が起きるまで、花形の漁業でした。規模も大きく経済的価値も高く、食糧供給の中心になっていました。

 

今ではこの母船式漁業は行われておりません。

 

 

帆船教育

今回書く内容は、帆船による船員教育についての個人的な雑感です。

 

日本には、「日本丸」と「海王丸」の二隻が帆船の練習船として用いられている。「あこがれ」も使用されているといえば使用されている様な。

 

かなり昔、この二隻の帆船に乗ることができたのは、東京と神戸にあった商船大学と五つの商船高等専門学校の学生だけでした。それも航海学科の学生だけで機関学科の学生は乗る機会が無かったのです。

今では、商船大学も無くなり、航海学科や機関学科などの区別も無くなり、商船学科と名を変えました。学生の数も減り、大学や高専の実習生も減っていきました。

その様な背景もあり、かなり前から商船大学や商船高専以外に海技学校の方達も実習生として乗船する様になった。と思ってます。

 

そのかなり昔、帆船教育の重要性として、自然を感じること、風や潮を読んで航海することが大事であり、外航商船の航海士は、その涵養を養うなどとの教育を受けました。

 

そして、商船高専最後の教育の締めくくりとして、帆船によって、荒れ狂う冬季の北太平洋を渡りハワイまで行くことが当時の慣習でした。ちなみに商船大学は夏の至って穏やかな太平洋横断。でも高専に比べると大学の方が花形。

 

冬の北西太平洋、正月明け、出港直後から、東京湾を出た野島崎沖から、揺れとの戦いです。風が無ければ帆船は進みません。早く目的地に着くためには、低気圧が必要です。

なので、冬季北太平洋は風速20m/s超えが当たり前で、暴風の中、大きなうねりや高波の中を突き進んで行きました。そりゃもう凄く荒れに荒れていました。

ハワイに着く頃、海は嘘の様に穏やかになります。そして入港後、常夏の地を満喫しました。

 

ハワイに行くほとんどの方は、片道、飛行機で8時間で行くところ、帆船で1ヶ月も掛けて、揺れに揺れて、風の力に頼って、わざわざ行くのです。これが帆船教育の一面でした。この「無駄な時間」が船乗りの涵養を養うと教育を受けていました。

加えて、六分儀を用いた天測も行われていて、これも涵養なのかも。こんな書き方になるのは、当時100人ぐらい乗っている実習生の中で外航の会社に行くのは数人だけで、ほとんどの実習生には関係のない話で、すでにGPSもあり、その前のNSSなども使用できる環境下での計算だったからです。

 

途中でマグロを獲っているから、その実習になるのでは?と思われた人がいるかもしれません。でも、商船教育の中には水産系の教育は含まれておらず、趣味程度の釣りしか行っていませんでした。

 

当時の船員教育機関は、商船大や商船高専だけでは無く、海員学校(海技学校)、水産大学、水産高校、東海大学や海保大、海保学校などがありました。しかし、それらの教育機関では、帆船教育を実施していませんでした。必要無かったのでしょう。

その昔の時で、既に、帆船教育が不要だったのだと思われるのです。

 

とは書きましたけれど、今、現在、帆船はあるものの、帆布を外し、帆走を行なっていないと聞きます。残念なものです。

 

当時、昭和の終わり、帆船に乗るには外航商船船乗りのたまごになるしか、乗る術はありませんでした。

それに乗る憧れもあって、船乗りを目指し、実際に乗るとその憧れはどこへやら。高専と大学の違いや社会的な商船業界の先行きの無さ。

船乗りにならない人を対象とした帆船教育にやしズリ教育、どうなのか?今では船乗りになる割合も増えているかもしれませんが。

 

今でも、帆走出来るのに、帆走しない、出来ない帆船。

今一度、考える時では無いかと思う次第です。